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木版/写真の可能性
湯浅克俊

私にとって版画とは「見る」ことの1つの方法であり、探求すべき可能性を秘めたジャンルの一つです。特に木版画は木を彫る、紙に摺ると言うとても単純でありながら、浮世絵に見られるように高度の技術、多彩な表現までを受容し、世界に日本の版画の名を知らしめています。しかし、世界において日本版画の高い技術は知られていながらも、一般的には浮世絵のイメージが強く、かなり偏った考えを持たれています。私は浮世絵の伝統的な木版画の技術、道具を使いながらデジタル写真を組み合わせ、もう一度版画の原点に戻っていきたいと考えています。版画は元来、宗教の法典を複製し、人々に教えを伝達する為に用いられました。それが後に新聞となり、本となっていきました。このように版画は情報を伝達する手段として用いられた訳ですが、今日において版画を美術に用いる理由とは何なのか。それは複数性や色の出方が表現の魅力でもあるのですが、私にとって版画を用いる最大の理由は「版」の可能性に他ありません。「版」が無ければ、版画にはならない訳ですが、版画の技術的な特異性や、複数性については多少の議論があるものの「版」自体の意義や概念についてはほとんど議論されないままになっています。私は「版」には議論すべき重要な問題や未来への可能性が含まれていると思います。版画と写真には多くの共通性と差異が存在します。写真は1つの版画であるとも言うことが可能ですが、版画は大きさを可変することができません。版画は「版」によって限定され、同時に「版」の上での表現の無限の可能性を与えられます。通常、木版画では彫った部分が余白に、残った部分に色がつきます。私の白黒木版作品では彫った部分は光に、残した部分は影になります。これは写真の露光のようなものです。私は木板に長い時間をかけて(小さい作品で1週間、大きな作品になると2、3週間)イメージを彫っていきます。自らがレンズとなり、対象を時間をかけて「見て」いきます。この作業を通して、視覚的に「見る」ことから認識的に「見る」ことへ移行していきます。これは時に修行のようでもあります。純粋な気持ちを強く求めるあまりに不純な気持ちがどんどんと底から溢れてくるように。私の作品のイメージは不純物で溢れています。ネガを印画紙にプリントするように彫り終わった「版」を紙にバレンで摺っていきます。プレス機ではなく、昔ながらの手摺りにこだわるのはこの方法が一番効率的に均等に圧を紙に与えることができ、摺るという行為が私に「版」というものを一番意識させてくれるからです。私の最近の作品の中には「版」をそのまま作品として提示したものがあります。この作品では初めから「版」を作品として提示することを目的としていたので、あらかじめイメージを反転させず正位置で彫り白や黒のインクで着彩をしました。これは彫ることのマイナスと着彩のプラスの作業によってプラスマイナスゼロの「版」が「版」として純粋に存在しえる位置を探求した作品でした。これ以外にも「版」の可能性を探求する作品案が幾つかあります。この先、私は版画を更に解体し、原点に戻り、再構成することで作品にしていきたいと思っています。今日において、版画を作品とする理由はこれ以外に無いと思っています。世界において、日本の版画=浮世絵と単純に言われない為にも、もっと真剣に広くそして柔軟に版画の意味を考え直さなければいけない時が来ていると思います。私は版画を通じて世界を見ていきたいと思っています。